日記

日々の記録

3/21(木)

 仕事。不合格だった生徒に対して、みな自然と励ましの言葉をかけている姿を見て、凄いなと思う。自分の中には励まし定型句のような言葉しか見当たらなくて困る。自分の気持ちが、言葉を経由せず、相手の気持ちに伝わるシステムができてほしい。でも、言葉で伝えることを諦めたくないので、日々模索してる。

 昨日アニメ『葬送のフリーレン』エピソード27を見た。フリーレンが一番好きな魔法を問われた時「花畑を出す魔法」と答えるシークエンスで泣きそうになってしまった。

 チートゲーのようにあらゆる攻撃魔法を容赦無く使いまくるフリーレンが、他者を倒すためではなく、救うための魔法を選び取ること。

 その魔法はドラクエホイミのように直接的な回復魔法=ダイレクトな救いではなく、「花を咲かせたら、誰かの気持ちが和らいでくれるかもしれない」といった他者への眼差しが内包されたささやかなものであること。

 遠い昔に無自覚にヒンメルを救った魔法を、フリーレンは、長い旅路を経た今、自覚的に「一番好きな魔法」として選択している。「人間の寿命は短いってわかっていたのに。なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう」と、亡くなったヒンメルに対して発したフリーレンの思いが結実した瞬間だった。素晴らしかった。

3/10(日)

 仕事。アレクサを目覚ましにしている。アラームを止めるとき、「ストップ!」「黙れ!」「止まれ!」と叫んでいるので、優しい言葉をずっと探してる。

 繁忙期。休憩も取れず、連日4,5時間の残業が続いてる。同僚にボロクソに言われていたけど、気にかけていた生徒が合格の報告をしに来てくれて。嬉しい。謎のポーズで二人で写真を撮る。大学生活、どうでもいいこと沢山してほしい。

 職場、電話の嵐。電話をなるべく取りたくないので、零コンマ何秒遅らせて受話器をあげ、他の同僚に取らせるテクニックを日に日に向上させている。ただし同僚も同じようにそのテクニックを日に日に向上させている。切磋琢磨。「誰が電話取るのか・・・?」みたいな探り合いの一瞬に仕事の全てが詰まってる。帰りに味噌ラーメンと炒飯。

1/14(日)〜1/16(火)

1/14(日)

 仕事休み。朝ご飯、卵焼きと白米に野菜ジュース。

『anone』4話。生まれるはずだった子どもの幽霊がずっと側にいて、その幽霊の子の存在に、救われてきた、るい子(小林聡美)の人生。幽霊の存在を信じる、信じない、という二元論ではなく、ただるい子の側にそういった存在がいて。それは幽霊なのか記憶なのか妄想なのか分からない。けれど、その人を根底で支える、目に見えない存在をそっと肯定する眼差しがあった。

 ちまちま読んでいた、寺井奈緒美『生活フォーエバー』を読み終える。西友と自宅と職場の行き来で立ち上がる日常の温度感がとても心地よかった。「マサラタウンで一生暮らすタイプだよね」とパートナーに言われる件に笑う。その後Netflix『終わらない週末』を見る。今のアメリカをひたすらに風刺していく終末ものだったけど、あまり刺さらず。

 夜ご飯。何を食べたか忘れた。寝る前にアマプラで『戦慄怪奇ワールド コワすぎ!』を見た。去年見てれば間違いなく年間ベストに入ってた。

 時空を自由に行き来し、幽霊とフィジカルと魔力で勝負していくはちゃめちゃなエンタメホラーで、こんなに楽しくていいのだろうか、ずっと思っていた。

 登場人物である熱血ポンコツ気味ディレクターの「悪の側面」が実体化した幽霊(?)とバトルするシーン。ディレクターはまさに「自分自身」と戦う。

「俺はおめえをぶっ殺す!何度生まれてもな。何度でもぶっ殺してやるよ!!」と、自分の中にある悪と対峙し、真正面から向き合い殴り合うシークエンスに心揺さぶられた。

 

1/15(月)

 仕事。慌ただしく一日が終わる。先輩が昼休みに雪見だいふくを「食べたかったから!」と言って買っているのを見て、愛おしいなと思う。

 帰宅後、プレミアリーグトッテナム/ユナイテッド戦を見る。いつの間にかヴェルナーとドラグシンが加入していて驚く。ウドジェとガルナチョのマッチアップ、火花が散っていてとても良かった。ヒルとポロが壁を作る時、「こじんまり」という感じがして、とても可愛かった。2-2の引き分け。

 

1/16(火)

 休み。10時頃起床。Netflix西部戦線異常なし』を見る。第一次世界大戦末期の西部戦線塹壕戦。過剰なデフォルメのない、きっと実際にあったであろう生々しい地獄のような場面が続く。「僅か数百メートルの陣地を奪い合うために、300万人の命が失われた」というラストのメッセージ、それは今も地続きに繋がっている気がする。

 ジュンク堂に行く。年末駆け込みで行なったふるさと納税で付与されていた楽天の期間限定ポイントを消化。岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学 』、武田砂鉄『わかりやすさの罪』(サイン本があったので、嬉々として)、ジョニー・オデル『何もしない』を買う。

 帰宅後、味噌汁を作る。豚肉、椎茸、小松菜を適当に切って放り込むだけ。ついで目玉焼きも作る。油の説明文に「ご飯に入れるとふっくら炊き上がる」と書かれていたので、入れてみると本当にふっくら炊き上がり感動する。

 『〈私〉を取り戻す哲学 』を読み進める。哲学用語を用いロジックで説明する文章を久しぶりに読み、難解。

 『anone』6話の続きを見て寝る。鍋をするシーンでみんなが適当に賞味期限の切れたものをボンボン放り込んでいくシーンがとても好き。「食べた日が賞味期限!」というセリフに、目の前の数字ではなく、自分の感覚を信じていけばいいのだ、と勝手に背中を押される。

 あとハリカが不登校の子どもと遊ぶところ。「かっこいい靴履いてるね」「時速300km出るんだよ!」という会話に、涙腺が緩む。こんな純粋で楽しい会話、子どもの頃はしていた気がする。

1/13(土)

 朝ご飯、バナナ。共通テスト一日目。

 仕事。昼ご飯、明太子グラタンと青汁。休憩中、同僚の付き合っている恋人の話を聞く。皿洗いの順番に妙に拘ったり、洗濯物を裏返しでそのままにしておくと怒るのがしんどいとのこと。何だかそういう生活の機微が愛おしく思うので、ニコニコしながら聞いてしまう。申し訳ない。皿洗いの順番って「その人が生活する中で見出した勝手な最適解」みたいな感じで、この世に正解なんてないけど、自分なりの正解を見つけ出している感じがして、とても好きだ。

 帰宅後にスーツのポケットに会社の鍵が入っていることに気づき、一瞬愕然とした後、すぐに「ラジオでも聞く時間にするか」と思い直し、会社へ向かう。最近はバッドムードなことも「〜したことにするか!」というマインドで生きている気がする。

 鍵を返した後、三省堂のカフェでブレンドコーヒー。阿部和重シンセミア』下巻を読み進める。相変わらず人間が抱く欲望ダダ漏れ状態の酷い登場人物しか出てこなくて、あまりにも酷いので笑う。

 三省堂のカフェでコーヒーを頼むと、サイフォンに入れたコーヒーを、目の前でカップに注いでくれる。その注いでいる姿をじっと見ていると店員さんが緊張してしまうのかな、と思いつつも見たい気持ちもある。店員さんとテーブルの間の中途半端な虚空を見つめていた。いつか真っ直ぐに見つめたい。(コーヒーカップを置くとき、カップがプルプル震えていたので、結局緊張させてしまったのかもしれない)

 Netflix坂元裕二『anone』が配信されているので、今日は2話を見て寝ようと思う。1話は昨日見た。小林聡美阿部サダヲが「名言って怖いですもんね」と瑞々しく名言を切っていく会話劇から始まる一連のシークエンスを見て、ああ坂元裕二の作品だ、と思う。

 

「止まない雨は無いとか」

「雨は止んでもまた降る。そっちの方がすっきりします」

 

 そういえば生方美久『いちばんすきな花』でもこういう名言怖いよね会話劇が繰り広げられていて、ここのオマージュだったのか、と思い返す。『いちばんすきな花』は世界に跋扈する名言的な言葉(=この世界で正しいとされていること)を真正面から受け止めると大火傷してしまう人たちが、どう連帯し、この世界と折り合いをつけて生きていくか、って物語だと受け止めていたけど。でも少し違うのかも。「名言的な世界観」を否定することで、自分たちの世界観を肯定すること。それは結局のところ、互いを傷つけ合うだけ。だからこそ美鳥の放つ、熟慮を重ねた結果の「どっちでもいいんじゃない?人それぞれだからね」というセリフが響く。

 夜々ちゃんが「見た目」だけで寄ってくる男たちに「うるせえな!」と言い放ったこと。紅葉が行きたくもない飲み会の会計係を毎回任せられていたけど、「頼むね、ありがとう」と他の人に初めてお願いできたこと。それぞれがこの世界との戦い方を見せて物語は終わる。でも、きっとその戦い方は物語が終わった後も変わり続けていく、ような気がする。一握りの、自分が信じた人たちに支えられながら、つっこまれながら、笑い合いながら。

 

ラストの美鳥のセリフ、たまに思い出していきたい。

 

勘違いされる人生だったけど。だからこそ、間違えないものがよく見えた。

勘違いがあったから見つかったもの。出会えた人もいる。

他人の価値観なんて理解できないけど、理解したいと思える他人と出会えることはある。

みんなみたいにみんなにならなくていい。みんなに嫌われている子なんていない。

誰かにとってはゴミになるものでも、他の誰かにとっては大切なものだったりする。

人はどうしたって変わっていくのに、なりたい自分にはいつまで経っても変われない。

他人に決めつけられた自分の価値からはどうしたって逃れられない。

みんなみたいになれなくて、上手に2人組も作れない。

居場所を探してうろうろしてた4人が出会って、3人がいてくれる場所が帰る場所になった。

いちばんすきな人は1人じゃなくて良い。

 

 

 

9/21(木)

 仕事、休み。10時頃起床。ミカンを1つ食べる。皮が黄と緑が混ざった色をしており、熟しきっていない。ベッドで皮を剥いていたら、身が硬すぎて力加減を誤り、ミカンの汁が布団カバーに飛んでしまった。渋々布団カバーを外し、洗濯機に放り込む。一つ横着をすると、その何倍もの労力をかけて取り戻さないといけないことがある。

 近藤聡乃『ニューヨークで考え中』1巻を読む。同じ場所に住み続けていても、違う景色は見ることができるよな、と思う。生活を細かい解像度で照らしてくれるような漫画だ。

 昼ごはん。ハッシュドポテトに最近ハマっている。ついでにホットコーヒーを頼む。先週までアイスコーヒーだった。アイスコーヒーからホットコーヒーに変えるとき、秋が始まった気がする。

 柴崎友香『百年と一日』を読み始める。最初の短編2つを読んだ。過去の記憶や出来事が、緩やかに今に結びついている感覚がとても心地よい。夕方、猫の世話のため実家へ自転車で向かう。肌寒さを感じ、秋用のアウターを羽織った。

 実家。①カレーライスを食べつつ②猫と戯れつつ③Netflix『ワンピース』を観た。ゾロにも引けを取らぬ三刀流。三刀流と調べたら「三刀流 意味ない」という検索ワードが出てきて、意味ないとかじゃないんだよ・・・ロマンなんだよ・・・と憤った。全てに意味を求めるって疲れると思う。

 明日は仕事。とても行きたくない。エンタメで労働のしんどさを塗り潰そうと、日々もがいている。本当はそんな消費の仕方はしたくない。ただ楽しみたいと、ずっと思ってる。

 

カメラ 昨日は何処へと
錆びついてく僕らの感情
カメラ 笑えばいいんだぜ
眩しいほどのキャッチライトでさ
君は綺麗になったよね 

youtu.be

 

3/19(日)

 自分は視力が弱い。とても弱い部類だと思う。「0.01」以下で、小学生の頃からメガネをつけている。中学生の頃はサッカー部に入っていて、試合中に見つめる景色はいつも茫漠としていた。

 昔は「メガネをつけている人=弱い人の象徴」みたいな意識を持っている人が多かった気がする。例えば、メガネをかけているだけで「のび太みたいだな」という雑な括りで揶揄する。子どもの頃はそんな揶揄を避けるため、必死にのび太的要素から逃れるようにしてサッカーをしたり勉強したりしていた。自分の欲望ではなく、他者からのキャラ化を避けるための営み。(大人になってから、のび太の持つ「弱さを抱えたまま、それでも行動する胆力」に気付けた)

 アニメキャラを周囲の人の外部的側面に当てはめて「人をキャラ化」するような行為は、みんなが行っていた。「〜君は〜みたいだよね」「〜ちゃんのそういうところ、〜っぽい」のように。それは大人になってからも、あまり変わらないような気がする。アニメキャラに例えるようなものではなく、「〜さんって大胆でなんでも積極的だよね」だとか「〜さんは寡黙で真面目だよね」のような、性格を大雑把に分類するようなキャラ化だ。

 最近思うのは「人をキャラ化すること」はその人に対する思考を断念する現れだ、ということ。「〜さんは〜だよね」と人を自分の思い描く枠組みに投じ込めて、「そういうキャラの人」として接すること。それはとても楽だし、ある種のテクニックだ。こういうキャラの人には、こういう接し方でいいという行動様式に従っていれば、「人と人が接するときの疲労」からは間違いなく遠ざかることができる。自分もそういうことをやってきたし、余計な精神的摩耗を避けることのできる魔法のテクニックにだってなり得てきた。

 でも。それでも「キャラ化されていない生身の感情」を発露している人を見たとき。そういう感情こそが人を人たらしめるものだ感じるし、自分の思考の枠組みから外れている人の感情を精査に、じっくりと見つめることが、その人自身を知る第一歩だと思う。(人を「完全に知る」ことはできないという前提をしっかり認識した上で。)違和感を違和感のまま受け止めること。他者と自分との差異を、自分の思考に閉じ込めないこと。内向から外向へ。

3/10(金)〜3/12(日)

3/10(金)

 朝10時頃起床。何を食べていたか覚えていない。夕方までU-NEXTでドラマ「サクセッション」3話まで観る。巨大メディア企業の家族内覇権争い。各々が栄誉をむしりとるぞという欲望を剥き出しにしていて清々しい。ハマりそうな予感がする。

 夕方、昔の職場の方々と飲み会。道中のJR内。頭髪の薄いサラリーマンの頭皮が半強制的に視界に入ってくるので、見つめざるをえなかった。

 待ち合わせ場所に到着。久しぶりに会う人たちの第一声は大体「生きててよかったー」。ほんとうにそれだけな気がする。居酒屋で四方山話。後輩のO君が家を建てて結婚していた。おめでたい。S君は相変わらず裏表がなく、仕事についての怒りを四方八方にぶちまけていた。怒りを全て適切な言葉で表出できることは才能だと思うし、そこは見習いたいなと思う。S君は自分の食べ物を勝手に食べていた。自分も勝手に食べた。互いが勝手にできる関係性の居心地の良さ。それは勝手ではないから。

 0時頃帰宅。アルコールでぼんやりとした頭の中、鳥羽和久「君が君の人生の主役になれ」を読み終える。タイトルがダイレクト過ぎるなと思って読むのを躊躇っていたが、千葉雅也や牟田都子が推薦コメント出しているのを見かけたので思い切って読んでみた。

 子供向けに書かれた新書だけど、完全に大人が読むべき哲学書だった。付箋を100箇所以上貼ってしまい、あらゆるフレーズが刺さってきた。自分の抱いている欲望は本当に自分の欲望なのか。それとも他者から要請されている欲望なのか。良い悪いの二項対立に騙されず、その間を揺れ動きながら自分なりの正解を探していくこと。そしてその正解もまた揺れ動いていくこと。千葉雅也の書評の一文はフロイト的。

 

ある規範が良いか悪いかよりも手前で、規範への適応によって何が抑圧されているのか、と問わなければならないのである。

 

 寝る間際に、岸井ゆきのさんの日本アカデミー賞の受賞スピーチを見て泣いた。

 

3/11(土)

 昼頃起床。「サクセッション」4話まで観る。「この物語をハッピーエンドに書き換えろ」というセリフがとても良かった。3月11日午後2時46分。黙祷をした。

 自分の欲望が広告に喚起されるのが嫌になり、フェイスブック、インスタ、Youtubeの登録チャンネルを全て消した。ついでにスマホ電子マネーやポイントアプリも全て消す。消したところで根付いた感覚はしばらくの間、自分の体内をうろついているだろう。それでもいつか、自分が信頼してる人から好きなものを伝えられて、それを見て楽しむという昔の感覚を取り戻せたらいいなと思う。

 

3/12(日)

 7時起床。朝食、バナナとココア。「村上春樹河合隼雄に会いにいく」を読み終える。互いの作品を読み返したい。

 昼頃にクリーニングに出していたスーツを取りに外出。歩いて行こうと思ったが、軽やかに自転車に乗る人を見かけ、自分も自転車に乗る。雪解けした水が排水溝に流れていく音に春を感じる。途中、図書館で一冊本を借りる。図書館内で何か落とした、と思ったらコートのボタンが取れていた。「こういう出来事に意味を見出せ」と河合隼雄なら言うだろうな、と思いながら「冬が終わった」ということにして仕立屋さんに持っていく。

 帰宅後、少し横になる。ネットで「哲学用語図鑑」と「諸説世界史研究」を買う。