ふたしか日記

ふざけたままでいてくれよ 文学フリマ東京40

9/15(日)〜9/17(火) ロロの劇と短歌『飽きてから』など

 

9/15(日)

 休み。ジュンク堂に行き、燃え殻『これはただの夏』を買う。

 最近は買った時のレシートを栞にして、即座に紛失してる。「買った日や店員さんのシャチハタが栞になるなんて、なんだか素敵ですね」という軽薄な詩的理由があるんだけど、軽薄ゆえ、すぐ紛失している。

 いつの間にかストロー入ってた袋とかティッシュとか。杜撰な生活を証明する栞になっていく。鎌倉文学館で買ったステンドグラス柄の栞も、ジュンク堂で買った黒猫の栞も、どこに行ったんですか。できれば会いたいです。身勝手ですまない。

 今日から、アイスコーヒーからホットコーヒーに変えた。秋なので。自分にとっての、分かりやすい季節の栞。季節は自分で決める。

 

9/16(月)

 休み。ロロ『飽きてから』を配信で見る。とても、とても素晴らかった。

 日々の生活や日常に飽き飽きして、うんざりしても。日々たちは気にするそぶりも一切見せず、勝手に続いていく。じゃあ。飽きてから「君たちはどう生きるか」なんだよな、と思ったりした。(駿先生、まだ見てません)

 

 自分にとっての「飽きてから」って何だ?となる。それは日々の機微に眼を凝らしたりサボったりして、日記を書くことで。そうやって見つけ出した、誰かにとってはあまりにもくだらない出来事の煌めきに、単純に喜ぶことなんだった。あわよくば、それを誰かと一緒に、喜びたいことだった。素敵な物語はいつだって、自然と自分の物語になる。

 

 「飽きる」って、そもそもなんなの。私はここ数年毎朝バナナをむしゃむしゃ食べてるけど、飽きる気配が一向にない。幼馴染の全然面白くないLINEメッセージは、ずっと私にとって面白い。飽きないよ。それでも、毎朝起きて「あぁ今日も仕事か」と思うことには、飽きてる。何回思えば消えるんだよこの感情、と思ってる。

 

 その人だけにしか感じることのできない、絶望的な「飽き」が、この世には沢山存在してることも知ってる。「絶望の反対語は、希望じゃなくてユーモアだよ」と、いつかの宇多田ヒカルは言っていたらしい。私はこの物語から「泣くのはいやだ笑っちゃおう」という魂を受け取りました。(心の中で蘇る、朝ドラ『ひよっこ』のみね子)

 泣いても、絶望しても、飽きてからでも、笑っちゃおう。遥か昔に飽きたものたちからの、ささやかな呼び声に耳を澄ませば、まだ聞こえるはず。

 

 ビー玉の光り方に、もう一度目を凝らす。斜に構えて聞かなかった音楽に、もう一度耳を澄ませる。走ることも歩くことも飽きたら、自分だけのステップで進んでいけばいいね。

 

9/17(火)

 仕事。セブンイレブン駐車場の車止めの鉄パイプで、ずっと前転してる子がいた。

 昼休み、外のベンチに座りながら社用パソコンを膝の上に乗せて、モニターを前屈みになって凝視してるOLの方を見かける。多分全然、正解じゃない。でもそれでええんです、と心の中に住まわせてる土井善晴がささやく。

 取引先からの帰り道、社用車のラジオからCHAGE&ASKAの「ヤーヤーヤー」が無機質に流れてくる。なぜ「ヤー」なのか、と少し考えた後、やめた。