日記

日々の記録

3/19(日)

 自分は視力が弱い。とても弱い部類だと思う。「0.01」以下で、小学生の頃からメガネをつけている。中学生の頃はサッカー部に入っていて、試合中に見つめる景色はいつも茫漠としていた。

 昔は「メガネをつけている人=弱い人の象徴」みたいな意識を持っている人が多かった気がする。例えば、メガネをかけているだけで「のび太みたいだな」という雑な括りで揶揄する。子どもの頃はそんな揶揄を避けるため、必死にのび太的要素から逃れるようにしてサッカーをしたり勉強したりしていた。自分の欲望ではなく、他者からのキャラ化を避けるための営み。(大人になってから、のび太の持つ「弱さを抱えたまま、それでも行動する胆力」に気付けた)

 アニメキャラを周囲の人の外部的側面に当てはめて「人をキャラ化」するような行為は、みんなが行っていた。「〜君は〜みたいだよね」「〜ちゃんのそういうところ、〜っぽい」のように。それは大人になってからも、あまり変わらないような気がする。アニメキャラに例えるようなものではなく、「〜さんって大胆でなんでも積極的だよね」だとか「〜さんは寡黙で真面目だよね」のような、性格を大雑把に分類するようなキャラ化だ。

 最近思うのは「人をキャラ化すること」はその人に対する思考を断念する現れだ、ということ。「〜さんは〜だよね」と人を自分の思い描く枠組みに投じ込めて、「そういうキャラの人」として接すること。それはとても楽だし、ある種のテクニックだ。こういうキャラの人には、こういう接し方でいいという行動様式に従っていれば、「人と人が接するときの疲労」からは間違いなく遠ざかることができる。自分もそういうことをやってきたし、余計な精神的摩耗を避けることのできる魔法のテクニックにだってなり得てきた。

 でも。それでも「キャラ化されていない生身の感情」を発露している人を見たとき。そういう感情こそが人を人たらしめるものだ感じるし、自分の思考の枠組みから外れている人の感情を精査に、じっくりと見つめることが、その人自身を知る第一歩だと思う。(人を「完全に知る」ことはできないという前提をしっかり認識した上で。)違和感を違和感のまま受け止めること。他者と自分との差異を、自分の思考に閉じ込めないこと。内向から外向へ。